大和川 |
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大和川の付け替え |
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大和川の付け替え大阪河内で歴史に語り継がれることに 大和川の 付け替えがあります。河内に住む人は 小学生でも 知っていることですが近畿の歴史に残る江戸時代の 治水工事でしょう。 大和川築留防上に立つ 中甚兵衛像 |
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| 大阪河内で 歴史に語り継がれることに 大和川の付け替えがあります。 河内に住む人は 小学生でも知っていることですが近畿の歴史に残る 江戸時代の治水工事でしょう。 私の住む柏原市は その「付け替え」の起点になった場所でもあります 大和川の付け替え工事は 江戸時代1704年長さ14.3km・川幅180mの 計画で延べ240万人の人手と7〜8万両の経費を費やし わずか8ヶ月で 完成させ 川の流れを大阪平野を北流し旧淀川と合流して大阪湾に 注いでいたものを現在の西方向の堺市方向へ付け替えた大工事です。
なぜ付け替えが必要だったのでしょうか 当時の淀川下流部・寝屋川筋・大和川下流部は 沼・沢の多い低湿地帯が 広がり 排水が悪く大雨の時は水が寝屋川に集まり淀川が逆流して河内平野 一帯にあふれ 現在の大阪市から堺市方面まで泥海になったと言います。 この付け替え請願運動と完成に生涯を賭け終始運動の中心にあった人物が (現在の東大阪今津)の庄屋の中甚兵衛という人で長い運動で同士の死にも めげず 父の遺志をついで最後はたった一人で何度も奉行所に請願して 工事計画を具申しました。 そして最初の江戸幕府の請願から付け替え実現まで50年近くの歳月を要して 完成したと言います。 付け替え工事で新川となって潰れた土地約274町歩旧川筋に出来た新田は 1063町歩 約1万ヘクタールの増地となりこの工事により洪水による危険は ほとんど解消されました。 旧川筋は大いに新田開発が進み 大きな池も田畑になりましたが河床跡は砂地の 為水田を作れず 綿の栽培が盛んになり明治中期頃まで河内木綿として発展しました。
明治の殖産興業のにより 紡績作業が盛んになりましたが安価な外国産の綿が 輸入され始め ワタ栽培も衰退をたどり替わって河内では ぶどう・みかんなどの 果樹や野菜が栽培されるようになり現在は宅地化で農地は 宅地のの間に田畑が 残る程度ほど 少なくなってきています。 中甚兵衛という人は (石碑文より) 幕府への請願から工事計画の具申と実際の工事にも御用を仰せつかり 付け替え時66歳で 完成翌年に剃髪して「乗久」を名乗り 92歳の天寿を 全うして亡くなりました。 河内の偉人の一人として末永く語りつがれるでしょう。 |
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